大河ドラマ『豊臣兄弟!』の藤堂高虎役は佳久創(かく・そう)さんです。史実でも高虎は1576年に豊臣秀長へ仕え、後に築城の名手へ成長した武将でした。
2026年のドラマでは、荒々しい力自慢だった高虎が仲野太賀さん演じる秀長に才能を見いだされ、主従として歩み始める過程が描かれています。この記事では、佳久創さんのプロフィールからドラマでの高虎、秀長との史実上の関係、具体的な戦歴や築城実績まで、ドラマの設定と史実を分けて丁寧に整理します。
『豊臣兄弟!』藤堂高虎役は誰?佳久創のプロフィール
『豊臣兄弟!』で藤堂高虎を演じているのは、俳優の佳久創さんです。
身長185センチという堂々とした体格を持つ元ラグビー選手で、大河ドラマへの出演は2022年『鎌倉殿の13人』の武蔵坊弁慶役に続くものとなりました。
佳久さんは明治大学でラグビーを続け、卒業後はトヨタ自動車のラグビー部へ進みました。しかし膝の大きなけがによって競技生活から離れ、その後、俳優の道へ進んでいます。2026年6月6日放送のNHK「土スタ」でも、社会人2年目までプレーしたのち、膝のけがによって引退を余儀なくされた経緯を語っています。
主なポイントを整理すると、次のようになります。
- 藤堂高虎役:佳久創
- 身長:185センチ
- 経歴:元ラグビー選手
- 大学:明治大学
- 社会人ラグビー:トヨタ自動車でプレー
- 引退の背景:膝のけが
- 大河ドラマ:『鎌倉殿の13人』武蔵坊弁慶役に続く出演
- 『豊臣兄弟!』では仲野太賀演じる秀長の家臣・藤堂高虎役
元アスリートならではの体の大きさは、高虎の「大男」という第一印象にそのまま説得力を与えています。
一方で、この役の面白さは体の大きさだけでは終わらないことです。
高虎は後年、戦場で槍を振るうだけではなく、築城や領国経営でも力を発揮する人物になります。そのため、若いころの「力の人」から「考えて動く人」へどう変化するのかが、佳久さんの高虎を見る大きなポイントになっています。
『鎌倉殿の13人』では武蔵坊弁慶を演じた
佳久創さんを大河ドラマで初めて知った方のなかには、「どこかで見たことがある」と感じた方もいるかもしれません。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、菅田将暉さん演じる源義経に仕える武蔵坊弁慶を演じていました。
当時も185センチの体格が役に生かされ、弁慶役のために体重を大幅に増やしたことが報じられています。
弁慶も高虎も「大柄で力強い」という入口には共通点があります。
ただ、『豊臣兄弟!』の高虎では、豪快さだけではなく、秀長と出会うことで自分の価値を知り、知恵や役割を増やしていく過程まで描けるところが大きな違いですね。
『豊臣兄弟!』藤堂高虎と秀長の関係は?第18回で家臣に
『豊臣兄弟!』で藤堂高虎と秀長の関係が決定的に動いたのが、2026年5月10日放送の第18回「羽柴兄弟!」です。
この回で高虎は秀吉側の家臣選びに参加しますが、最終的には仲野太賀さん演じる小一郎、のちの豊臣秀長の家臣として召し抱えられました。
ドラマの高虎は、それ以前にも姉川の戦いで小一郎と出会っています。
再会したときの高虎は、城下で騒ぎを起こすような荒っぽさを残した人物でした。しかし小一郎は、表面的な短気さだけで高虎を判断しません。
高虎には、いざというときに他人を助けられる部分がある。
自分ではうまく説明できない長所まで、小一郎が見つけてくれる。
そして高虎は、自分を初めて本当の意味で認めてくれた人物に仕えることになります。第18回では、そうした二人の関係が主従として形になるまでが描かれました。
ここが『豊臣兄弟!』版の高虎を理解するうえで、とても大切な場面だと私は感じました。
単純に「強いから採用された」のではありません。
秀長が、周囲には扱いにくく見える人物の内側に価値を見つけた。
だからこそ、高虎にとって秀長は単なる雇い主以上の存在として映るのではないでしょうか。
「秀長が高虎を育てる」はどこまで史実なの?
ここでは、ドラマと史実をしっかり分けておきましょう。
『豊臣兄弟!』では、高虎が秀長との出会いをきっかけに武勇だけでなく知力の重要性も学んでいく人物として描かれています。
しかし、「秀長が高虎に算術や築城を一つずつ授業のように教えた」といった細かな過程まで、史料でそのまま確認できるわけではありません。
したがって、二人を「師匠と弟子」と断定するより、史実に存在する主従関係をもとに、ドラマでは秀長が高虎の才能を開いていく関係として物語化されていると考えるのが自然です。
私はこの線引きが、とても大事だと思っています。
歴史ドラマを楽しむとき、ドラマの人物像を全部「史実だった」と受け取る必要はありません。
逆に、「創作だから意味がない」と切り離す必要もありません。
史実にある大きな関係を土台にして、「この二人ならどんな気持ちで互いを必要としたのだろう」と想像できるところに、大河ドラマならではの楽しさがありますね。
史実の藤堂高虎は本当に秀長の家臣?1576年からの歩み
結論からいうと、史実でも藤堂高虎は豊臣秀長に仕えています。
津市の藤堂高虎に関する資料では、高虎は弘治2年(1556年)に近江国犬上郡藤堂村、現在の滋賀県甲良町周辺に生まれ、元亀元年(1570年)に浅井長政へ仕え、姉川の戦いで初陣を経験したとされています。
その後は一人の主君に仕え続けたわけではありません。
主君を替えながら経験を重ね、天正4年(1576年)に羽柴秀長へ300石で召し抱えられたと津市の年表に記されています。
ここを年代順に見ると、高虎の歩みがかなり分かりやすくなります。
1570年、まだ十代だった高虎は浅井長政のもとで姉川の戦いに参加。
そして1576年、20歳前後で秀長に仕える。
この約6年間に主君を替えながら生きてきた若者が、秀長との主従関係を境に大きく飛躍していくのです。
「何人もの主君を替えた武将」という有名なイメージだけを聞くと、落ち着きのない人物のように感じるかもしれません。
しかし、高虎が生きた戦国時代は、主家そのものが滅び、昨日までの仕官先を失うことも珍しくない時代でした。
そのなかで秀長への仕官は、高虎にとって長く能力を発揮できる場所を見つけた転機だったと見ることができます。
秀長のもとで出世し、1587年には領主へ
津市の資料では、高虎は秀長に仕えた後に戦功を重ね、禄高を増やしたとされています。
天正15年(1587年)には紀伊粉河の領主となり、大名への道を進みました。津市の資料には、高虎がこの時期まで秀長の信頼を得て活躍していたことが示されています。
つまり、高虎と秀長の関係は「一時期だけ仕えました」という軽いものではありません。
1576年に召し抱えられてから、秀長が亡くなるまで、高虎の武将としての重要な成長期が秀長家臣時代と重なっています。
これを知ったうえでドラマを見ると、第18回で秀長の最初の家臣として迎えられた場面が、少し違って見えてきます。
あの場面は単なる新キャラクター加入ではありません。
後に大きく飛躍する武将の人生で、重要な主従関係が始まった瞬間として見ることができるのです。
秀長の死後は豊臣秀保を支えた
豊臣秀長は1591年に亡くなります。
その後、高虎は秀長家をすぐ離れたわけではなく、後継者となった豊臣秀保に仕えました。
津市の資料では、高虎は秀長の死後に秀保の後見人となり、秀保が亡くなった1595年には秀長家が取り潰されたため、高野山へ隠遁したとされています。
ここは、高虎の人物像を考えるうえで見逃したくないところです。
「主君を何度も替えた」という印象だけなら、秀長が亡くなった瞬間に次の有力者へ移ったようにも想像してしまいます。
ところが実際には、秀長の死後もその家を支え、秀保に仕えている。
高虎と秀長家の関係は、若いころの数年間だけの偶然ではなかったことが分かります。
藤堂高虎はどんな武将?姉川から今治城まで史実を具体的に解説
藤堂高虎は、後世に武勇と築城の両方で知られる武将となりました。
1556年生まれの高虎は、1570年の姉川の戦いで初陣。その後1576年に秀長へ仕え、豊臣政権下で力を伸ばし、やがて徳川家康からも重用される人物へ変わっていきます。
この長い人生を見ると、『豊臣兄弟!』が若い高虎を「まだ完成していない武将」として描いている意味がよく分かります。
私たちは歴史の結果を先に知っています。
でもドラマの高虎本人は、まだ未来を知りません。
そこに面白さがあるんですよね。
高虎は「築城の名手」として何をした?
「藤堂高虎=築城の名手」という言葉はよく見かけますが、具体例まで知ると人物像がぐっと鮮明になります。
代表的なのが今治城です。
関ヶ原の戦い後、高虎は伊予半国20万石を領し、慶長7年(1602年)に今治城の築城を開始しました。今治市によると、今治城は海水を引き込んだ広大な堀と船入を備える大規模な海城で、1608年ごろまでに完成したと考えられています。
さらに津市の略年譜には、高虎が関わった城として膳所城、伏見城、江戸城、篠山城、亀山城、津城、伊賀上野城などが記されています。
ここまで具体的に見ると、「城づくりが得意でした」という一言では収まらない人物だったことが分かります。
特に今治城は、単に敵から身を守るための箱ではありません。
海と城下町を結びつける設計が特徴で、高虎が「戦う場所」だけではなく、交通や都市の機能まで見ながら城を考えていたことがうかがえます。今治市も、高虎が城下町を整備し、現在の都市の原型をつくった人物として紹介しています。
だから私は、『豊臣兄弟!』で高虎が算術や築城など、武力とは違う能力へ目を向けていく設定には、とても分かりやすいドラマ上の狙いがあると感じます。
後年の高虎を知っている視聴者には、「いま覚えていることが、あの今治城につながっていくのかな」と未来を重ねて見られるからです。
「主君を替えた武将」だけでは高虎を説明できない
高虎は最終的に徳川家康にも接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に属しました。
1598年に豊臣秀吉が亡くれた後、家康との関係を深め、1600年の関ヶ原の戦い後には伊予今治を中心とする大領を与えられます。その後1608年には伊賀・伊勢へ転封され、津藩の祖となりました。
確かに、仕える相手が変わっているのは事実です。
ただし、若いころの主家の没落や秀長家断絶など、その背景を無視して人数だけ数えると、高虎の人生を必要以上に単純化してしまいます。
むしろ注目したいのは、どの環境でも経験を吸収し、武力だけではなく築城や統治まで担える人物へ変わっていったことです。
私は高虎を「主人を替え続けた武将」というより、激しく状況が変わる戦国時代を、生き方そのものを更新しながら渡っていった武将として見るほうが、『豊臣兄弟!』の成長物語ともつながりやすいと感じています。
佳久創は藤堂高虎をどう演じた?第18回以降に見える変化
佳久創さん演じる高虎は、登場した瞬間から「完成された名将」ではありませんでした。
むしろ大きな体、短気さ、力の強さが先に目へ飛び込んできます。
2026年6月6日放送の「土スタ」でも、藤堂高虎の大男ぶりや初登場時の設定、槍を使った場面などが振り返られました。番組では、高虎が小一郎と運命をともにする人物になっていくことも紹介されています。
第18回で家臣になってから、高虎は秀長のそばで行動する場面が増えていきました。
たとえば竹田城をめぐる展開では、秀長や前野長康らとともに、正面からただ血を流すのではない方法を考える家臣団の一人として描かれています。
これは小さな変化のようで、かなり重要だと思います。
高虎は「自分が強ければ勝てる」という場所から、主君と仲間と一緒に状況を考える側へ入り始めているからです。
佳久創の大きな体が「強さの変化」を分かりやすくする
佳久創さんの185センチという大きな体格は、高虎を演じるうえで分かりやすい武器です。
でも私は、その体格の本当の面白さは、物語が進んでから出てくるのではないかと思っています。
最初は、大きいから強そう。
腕力があるから頼もしそう。
視聴者もまず、そう感じますよね。
ところが経験を重ねた高虎が、同じ大きな体のまま周囲を見て、考え、主君を補佐するようになる。
すると、外見は変わっていないのに「強そう」の意味だけが変わります。
腕力で押し切る強さから、状況を読み、組織を支える強さへ。
後年の高虎が城づくりや領国経営でも存在感を示したことを考えると、『豊臣兄弟!』ではこの変化を長い時間をかけて見せることができるのです。
なぜ『豊臣兄弟!』は藤堂高虎を「秀長に育てられる武将」として描くのか
ここからは、ドラマで描かれてきた内容と史実を踏まえた筆者の考察です。
私が『豊臣兄弟!』の高虎を見ていて特に面白いと感じるのは、高虎自身の成長が、そのまま秀長という主人公の魅力を見せる仕組みになっていることです。
豊臣秀吉なら、城を得た、勝利した、天下人へ近づいた――という大きな出来事で能力を示しやすいでしょう。
でも秀長の魅力は少し違います。
人の話を聞く。
相手の良さを見つける。
兄・秀吉の暴走を受け止める。
人と人の間に入り、組織を回す。
こうした能力は歴史上とても重要でも、戦場で敵を倒す場面ほど派手ではありません。
だからこそ、高虎がいるのだと私は考えています。
周囲から扱いにくいと思われていた大男を、秀長だけは違う角度から見る。
そして自分の家臣にする。
その高虎が少しずつ変わっていけば、秀長本人が「私は人材を育てるのが得意です」と語らなくても、秀長のそばでは人が力を発揮できることが伝わります。
高虎は、秀長の人物像を映す鏡なのではないでしょうか。
史実の「築城名人」を、ドラマは成長途中から見せている
もう一つのポイントは、歴史上の高虎について視聴者が知っている「答え」を、ドラマではまだ見せ切っていないことです。
史実の先にあるのは今治城であり、膳所城であり、江戸城の普請であり、伊賀上野城や津城です。
しかし『豊臣兄弟!』の若い高虎には、まだそこまでの実績はありません。
この距離が面白いのです。
教科書なら「藤堂高虎、築城の名手」で一行。
ドラマなら、その一行になる前の何年もの時間を描けます。
知らなかったことを覚える。
自分の欠点を知る。
主君から仕事を任される。
仲間と考える。
一人で戦うだけではどうにもならないことを知る。
そうした経験の向こうに、後世の「藤堂高虎」が待っています。
完成した高虎を知っているからこそ、完成する前の高虎が面白い。
私はこれが、『豊臣兄弟!』で佳久創さん演じる高虎を見る一番の楽しみだと感じています。
秀長との関係は「主従」以上のドラマになりそう
もちろん、史実として確認できるのは主従関係であり、ドラマで描かれる心の交流をそのまま史実と断定することはできません。
それでも1576年から秀長に仕え、秀長の死後も秀保を支えたという史実を考えると、高虎にとって秀長家で過ごした時間が重要だったことは確かです。
だから『豊臣兄弟!』で二人の関係を丁寧に積み上げることには、歴史上の土台があります。
第18回でようやく家臣になったとき、高虎はまだ将来の「築城の名手」ではありませんでした。
秀長もまた、後世から見た「天下人の弟・豊臣秀長」という完成された存在ではありません。
未完成の主人と、未完成の家臣が一緒に成長していく。
そこが、この二人の主従を温かく見守りたくなる理由なのだと思います。
まとめ|『豊臣兄弟!』藤堂高虎役は佳久創、史実でも秀長に仕えた
『豊臣兄弟!』で藤堂高虎役を演じるのは、元ラグビー選手の俳優・佳久創さんです。
佳久さんは身長185センチ。明治大学からトヨタ自動車でラグビーを続け、けがを経て俳優へ転身し、2022年『鎌倉殿の13人』では武蔵坊弁慶を演じました。
『豊臣兄弟!』では、2026年5月10日放送の第18回「羽柴兄弟!」で高虎が小一郎の家臣となり、仲野太賀さん演じる秀長との主従関係が本格的に始まりました。
史実でも高虎は1556年に近江で生まれ、1570年の姉川の戦いで初陣、1576年に羽柴秀長へ300石で仕官しています。秀長の死後は豊臣秀保を支え、さらに後年には今治城をはじめ多くの城づくりに関わる武将へ成長しました。
ドラマ上の細かな「学びの過程」と史実をそのまま同一視する必要はありません。
ただ、若い高虎が秀長のもとで武将として力を伸ばしたという大きな流れには、しっかりと歴史上の土台があります。
『豊臣兄弟!』では、槍を振るう大男だった高虎が、やがて「考える武将」へ変わっていく姿と、その才能を最初に認めた秀長のまなざしを一緒に追ってみてはいかがでしょうか。
よくある質問
『豊臣兄弟!』の藤堂高虎役は誰ですか?
佳久創(かく・そう)さんです。
身長185センチの元ラグビー選手で、明治大学を経てトヨタ自動車でプレーした経験があります。大河ドラマでは『鎌倉殿の13人』の武蔵坊弁慶役にも出演しています。
藤堂高虎は史実でも豊臣秀長の家臣でしたか?
はい。津市の資料では、天正4年(1576年)に羽柴秀長へ300石で召し抱えられたとされています。
秀長が亡くなった後は後継者の豊臣秀保を支え、秀保の死後に秀長家が断絶すると高野山へ隠遁しました。
藤堂高虎はなぜ「築城の名手」と呼ばれるのですか?
高虎は今治城をはじめ、膳所城、江戸城、篠山城、津城、伊賀上野城など多くの城の築城・修築に関わったとされています。
今治城は1602年に築城が始まり、海水を引き込んだ堀や大規模な船入を備えた海城でした。若い高虎の成長を見るときは、こうした後年の姿につながる過程として見ると『豊臣兄弟!』をさらに深く味わえそうですね。


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